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死神に取り憑かれた何か

現実逃避

醜態、憎悪、嫉妬、悲哀、羞恥、悲劇などといったネガティブな単語をひたすら並べれば、己のこれまでの人生の大半は説明出来てしまう。生まれてから二十数年で己が人生から学んだ印象はこんなものだけだ。悲劇 というと「悲劇のヒロイン」というフレーズがあるが決してそんな劇的なものでは無い。面白みのないつまらない人生である。いつの節目を思い出しても目を瞑りたくなるような出来事ばかり。そんな人生になんの価値があろうか?希死念慮という言葉を覚えたのは高校生くらいの時だったが、その時からずっと代わり映えのない、宛もなく彷徨っているような漠とした時間を生きてきてしまった。こんなことを言いながら、今日から先も己はのうのうと生きてしまうのだろう。

生きてしまうとはいっても死ぬということが中々手強いように、生きるということも簡単なことではない。とも思う。なぜなら生きるにはまず、食事をしなければならない。そして歯を磨く、入浴する、睡眠をとるというサイクルを毎日しなければならない。さもないと体が飢えてしまう、或いは腐ってしまうからだ。「栄養、休養、運動」、この三つを繰り返すことで身体は健康になり凡そ「生きる」ということが完成すると言われている。勿論金あっての話だが。お金さえあればなんでも手に入るこのご時世、恵まれた日本という国ならば餓死する人など取り分け多くないはずだ。しかしお金を手に入れるには仕事をしなければならない。仕事という土台の上で、生きることが成り立っている。マジョリティは生きるということを簡単だと錯覚しているのかもしれない。外面的には「平和」なのであろう。錯覚とはいえ生きるのが簡単ではあるものの、それが幸せとどう関係があるのであろうか?もちろん生きていれば美味しいものをたくさん食べられるし好きな物がある人はそれに時間を費やすのだろう。しかし若年層(30代くらいまで)の死因の第一位は自殺であると言われている。世の中、自殺を褒め称える人は道徳的に少ない。大好きな人や愛するペットが死んで喜ぶのは一部のサイコパスくらいだろう(特徴として挙げているだけ批判などではない)。このようなことから殺人と自殺は同類で背徳行為と印象付けられている。しかし毎日のように自殺は起こっている。その背景には、いじめ、パワハラ、金銭、過労、見栄など数知れずのブラックホールが存在する。人生に価値を見つけられない人間は自らこの落とし穴に落ちていくのだ。こんな国を「平和な国」と呼んでしまっていいのだろうか?

つまり何が言いたいのかというと、こんなドロドロした現実というものに四六時中目を向け続けられる人間はいるのだろうか、ということである。いるとすれば、その現実と向き合うためのモチベーションはどこから得ているのだろうか。私にはわからない。なぜなら当然ながら私は「わたし」という人間以外の人生を生きたことも、感じたこともないから。人はみんな本能的に、絶望を避けるため生きたくもないのに趣味や生き甲斐を見つけ、騙し騙し生きているように見える。

わたしは一日のうち、睡眠以外の時間はほとんど「現実逃避」をしている。それも意識的に、やるぞ!というものではなく気づいたらしているのである。いわば「本能的行為」だ。流石に起きている時間全て現実逃避をするというのは大袈裟だが、それでもかなりの時間になるのである種の依存と思われても仕方が無い。現実逃避と夢想というものはよく似ていて、宛もないことを思いめぐらすことである。順番でいえば、現実逃避が夢想に変わった感じであるが、別に進化のようなカッコイイものではなく、最近に始まっていた訳ではないという己の中の認識の変化である。こんなものは仕事のようにやっていればお金がもらえる訳でもない、なんの価値もないといえばそうだろう。こんなわたしを客観的に見ても実に愚かだと思う。しかし簡単にはやめられないのだ。こんなことを書いてると「言い訳だ」「甘えだ」「逃げだ」というような言葉が頭に響くこともある。自分の中にもそんなことを言ってくる色眼鏡をかけた偽善者が存在する。とは言うもののやはりこれらの行為は世俗的にはあまり望ましくないもののようだ。己も少しばかりその世俗の洗脳に遭っているのでこんなわたしを情けないと自覚はしている。

現実は時に人を殺す。しかし人それぞれ境遇は異なり、全く同じ理由で死ぬ人は存在しない。現実逃避も同じだ。人それぞれ(自覚しているか否かは置いといて)それをする理由がある。つまり死ぬのも生きるのもそれをする理由は自分だけのものである。現実から逃げているということは極端にいえば自分の命を守っていることにもなる。なぜなら人は現実を見続けると挙句の果てに(自分に)殺されるのだから。だから現実逃避をするということはある意味善を尽くしているともいえるのではと思う。もちろんこれはシチュエーションにもよるので一概には言えないのだけど。空想の世界は誰にも干渉されない、すべてが自由、辻褄が合わなくともすべてが思い通り、まる自分が神になったかのような気持ちになるという実にカオスなもの。これが現実逃避、かっこよくいうと、夢想の長所である。とわたしは思う。どうしてこれが価値がないものだと言えるのだろうか?

というグダグダな理屈によって、現実逃避はさっき述べた言い訳、甘え、逃げ、愚かなどというバイアスがかかった言葉で表せるものでは更々ないことを主張したい。若干欺瞞じみている気がするのはこんなことをしていても小説家にでもなって売れない限り生産性はないし目に見える報酬もない。資本主義の影響もあるのか、そんな自分だけの世界に閉じこもっていると、やはり怠惰な奴だとしか思われないからだろう。というのは承知している。しかしわたしが夢想家であることは、わたしが言わない限り誰にも気づかれない。そこにあるのは快楽的な孤独と無限の可能性に満ちた神秘的な時間のみ、それから一抹の癒しというわたしにしか知り得ない報酬である。無論わたし以外にも現実から目を背けリアルの世界とは別に自分の世界を作りそこに依存している人というのはそれなりにいるのであろう。ありきたりな話かもしれないが従来それはごく自然なことであったと言いたい。

長々と現実逃避の魅力を語ったが、なんだかんだそれは「リアルの世界」の影響を受けているものと思う。起因がなければ現実逃避もしようがない。こんな現実を見た、それが辛かった、だから勝手に頭の中で変えてしまえばいい、という少し病的なそれであるが、私は結局それをすることによって現実世界とのバランスを取り、救われてしまっている。生かされてしまっているのである。

死ぬというのはネガティブな意味で捉えられがちだが、深く考えればそうとも言いきれない。人間の本能は死に逆らっているのである。それを 正しい と読むか、生きにくいと解釈するかは個人の自由だ。死ぬというのもまたひとつの冒険であると思う。冒険というと響きがよく聞こえるが、これはわたしの夢想の一部だ。

ここまで夢想はいいもんだということをあれこれと述べた。同時に現実というものもお構い無しにここに存在する。わたしはそんな現実と「わたしだけの世界」を上手く平行させ、ポジティブに言えばどのように生きていくか、ネガティブに言えばどのように死を待つのか。同じ「生きる」でもそのやり方は沢山ある。命に絶望を感じながらも無意識に命を助けてしまっているこの「夢想」というものの不思議な力は、今日もわたしの潜在意識の中に溺れ続ける。